今を生きる人たちがうたう、「大友良英Presents 武満徹の”うた”」

Eテレのクラシック音楽館「大友良英Presents武満徹の”うた”」をオンデマンドで観た。
最近亡くなった立花隆さんの「武満徹・音楽創造の旅」を夢中で読んでいる途中で、にわかタケミツマニアなので、個人的になんともタイムリー。

そして、武満さんのうたを現代の歌い手と演奏家でディレクションするのが大友良英さんだというのも、「なんて相性良さそうなんでしょう」と思いました。大友さんのノイズ音楽、きっと武満さんのミュージックコンクレートと近いはず、と思ってたら、そうか、お会いしてたのか〜と、一人深々と納得。

番組は、ライブ部分とリハーサル部分、そして武満さんご本人の映像や弾き語りの音声まで充実してて、
私が何よりいいなあと思ったのは、雲の上の存在のような「大作曲家」としての作品じゃなくて、今を生きる演奏者が、楽曲を新鮮に受け止めて捉え直して、今を生きる音楽に仕立て直しているところ。そうしてもびくともしないところに、武満さんの音楽の骨格の確かさが伝わる。

なんだか最近、「人がやっているんだ」ということがことさら見えづらくなっている時代で、音楽ですらそう感じるから、「ああ人が奏でている!人が歌っている!」と伝わるライブがものすごくよかったです。加工されていない、なまものの、音楽。息遣いが聴こえるから、聴く側も息ができる。

何よりずしんときたのは、大友さんの「どんなに正しいことだとしても、みんなで同じ方向に向かうのは怖い」という言葉で、その後歌われた七尾旅人さんと大友さんのデュオの「死んだ男の残したものは」が刺さりました。
確かにこれは合唱曲じゃないよな。個人で立つ人が発信する、個人の語りだよな、と。
旅人さんが一人の男として歌う横で、大友さんのギターは、何かを具体的に伝えたり説明したりするのではなく、ただ、空に放たれる。それが何を表していると感じるのか、聴き手に委ねられる。
民衆を一つの方向に導く手段に音楽を使うことを、武満さんは非常に警戒していたから、このアレンジはきっと、好きになってくれたんじゃないかなー。

だからこそ(=みんなで同じ方向に向かいたくない)、歌い手さんたちの音楽的な傾向が、ある一方向に指向性が強すぎるのは気になった。個人個人はみんな好きなアーティストなんだけど、やっぱり似すぎてる。これが時代の空気、時代の歌い方なのかもしれないけど、そこには層の厚さ、多様性がほしかった。だから余計に、浜田真理子さんのまっすぐさが際立った。

とはいえ、「うた」とひらがなで書きたくなる日本語の音程とリズムの優しい混じり合い、楕円というか螺旋というか、植物のつるみたいな武満さんの楽曲を、本当にていねいに大事に捉えていることが伝わって、そのことに胸が熱くなった。
人と人とが直接会ってものを作ること、音楽をつくることが当たり前じゃなくなった今、こうやってチームで丁寧につくる時間が何よりも贅沢なものだと、気付かされる。

後半、無言館での演奏(これは別番組?)もすごかった。
クラムとバーバーという、全く違う個性の弦楽四重奏曲を弾いた若手のすごく巧みな演奏家たちが、おそらく同世代で命を落とした芸術家たちの絵にさらに背中を押されているように感じて、美術と音楽の相乗効果だなと思った。美術って、無言の圧があるからなあ。
どちらかというとこれはこれで別建ての番組でじっくり観たかった気がする。