私の沖縄ノートのきれはしvol.3 [2022年 おばと沖縄復帰]

この話は、2021年秋に沖縄に行ったときにおばと会ったあと書いたものです。
その後、沖縄タイムス社の「沖縄の生活史」聞き取りプロジェクトに応募し、
このときのおばの話をさらに聞きました。(沖縄タイムスにて公開
この記事は、その前の個人的な記録として残しておきたいなあと思っています。

「本土復帰は、世界が変わると思った。高校生も熱く独立論や復帰論を語って、自分のことのように真剣だった。」

 私の叔母はNちゃんという。幼い頃からそう呼び続けたので、私が40代半ばになってもちゃん付けで呼ぶ。叔母は高校を卒業すると、東京の短期大学に行ったので、そこで私の父にはずいぶん面倒を見てもらったようだ。

「沖縄から出てひとりぼっちの東京にいるのはさみしくてさみしくて、毎日泣いていたよ。一人といっても、代々木にある沖縄県人寮に住んでいたんだけどね。今と違って人見知りでね。友達ができる前は本当にお父さんのおうちに何度も行かせてもらったのよ」

 集団就職で東京に出てきた父には、Nちゃんのさみしさがよくわかったのだろう。私と弟が生まれてからも、よく家にきた。私たちとよく遊んでくれる、大好きなおば。スイミングインストラクターをしていたので、私も弟も泳ぎを教わった。ちなみに、父は泳げない。「沖縄では海は泳ぐものじゃない」らしい。

 その後祖母は沖縄に帰り、再会したのは父の葬儀の場だった。変わらず懐かしがってくれて、私が一人で沖縄を旅したいと言ったら、まるで小学生が一人で飛行機に乗るかのように心配して、空港で待ちかまえてくれていた。

 せっかちなNちゃんの観光案内は強烈である。ドライブが大好きなので、私が来ると1日かけて本島を回ってくれるのだが、休みなく、説明しながらガンガン次へと進む。初めて行ったときなんか、世界遺産の城跡も車を走らせながら、

「ほらっ、あれ勝連城さ〜。見て!見た?じゃあ次ね。車降りなくていいから。登るのたいへんさー」

「最近流行ってるビーチよ。沖縄来たんだから海いかないとね。リゾートホテルのプライベートビーチだけど、今人いない時期だからいいのいいの。でもこっちの人間は昼間から泳がんさ〜。はい、写真とるから!(私が海に足をつけたところでぱしゃぱしゃ撮って)よかったね〜はい次」

「恩納村の美味しい沖縄そば食べて、道の駅でぜんざいたべようねえ。で海中道路ね。あー今日は引き潮で泥ばっかね。じゃあ車とばしてかえろーねぇ」

「これは中村家住宅っていう古い家ね。文化財よー。けど入場料払う程上等じゃないさあ、あんたのおばあの家と変わらんさー。外から見て、はい行こうねえ」

 ずっとこんな感じ。超スピードの観光であれこれ見ながら、マシンガントークを全部聞くと、脳がくたくたになる。でも愛情深くてカラッと明るい、私にとっては、沖縄とつながる唯一の親しい親族なのだ。そんな彼女と、でも、一緒に南部に行ったことはない。

「私は西表も一人でキャンプするし、やんばるもしょっちゅう車飛ばしていくから、どこでも連れてってあげるけど、南部はちょっと苦手だから一緒に行けないの。若い頃行ったこともあるけど、やっぱり戦争のことを思い出してかなしくなるわけよ」

 今年も、本島北部から中部までのドライブの途中、延々続く米軍基地を横目に見ながら、沖縄本土復帰の話になった。沖縄が日本に復帰したのが1972年、Nちゃんは沖縄のコザで高校生だったという。

58号線をドライブしながら、彼女の話がどんどん熱を増して行ったことに、その当時の熱を感じた。

「沖縄復帰は、私がコザ高校にいたころで、なんで復帰するのかねーと思っていたよ。本当はお金もドルのままがかっこいいし、このままでいいのにって。だって円のお金は安っぽくておもちゃみたいだったから、お金じゃないみたいだったもの。もっと前に軍票のB円がドルに変わった時は、そのうち価値が出るからと大事に溜め込んでいた人もいたけど、B円はただの紙切れになって、大事に持っていた人は大損したよ。

学校でも、復帰については学生討論会がずいぶん行われていた。復帰反対の人とか、琉球は独立した方がいいとか、あちこちで集会があって高校生も真剣に語り合っていた。そのくらいの大事件だったから。昔も今も、私はのんびりしてあんまり政治のこと真剣に考えることはないけど、あの時は世界が変わるくらいの出来事だったから、高校生も熱かったよ。復帰してみたら、おもったほど変わらなかった。その後私は東京の学校に行ったから、その後の道路が右側通行から左側通行に変わるナナサンマルとかは経験していないのね。でもあの数年は、沖縄にとっては大事件だったわけ」

 そういえば離島に住む知人は、

「私はその時子どもだったから、沖縄が日本に復帰したら、沖縄にも雪が降ると信じていたよ」といった話が笑い話になっていたが、当時多くの子どもが同じように信じていたらしい。

 沖縄の小さな島の復帰で「世界が変わる」と思った当時の子たち。貨幣や交通ルールまで変わるような体験は、そりゃ、世界がひっくり返るように思っただろう。私たちも今、震災や感染症を経験するたびに、「今度こそ世界は変わる」と思うけれど、思ったようには変わらない。

 沖縄には今も、全国の米軍基地の7割が集中しており、祖母の家のある宜野湾市では、またオスプレイから落下物があった。昔から祖母に電話すると、ゴーゴーという飛行機の音がうるさくて声がよく聞こえなかったことを覚えている。先祖代々の墓は米軍基地の中にあるそうだ。
 県民の意思を県民投票で示した普天間飛行場の辺野古移設反対も、国は聞こえないかのように、工事は何があっても強行されつづけている。それでも「何も変わらない」とすっかり諦めているような日本本土にいると、当事者として意思表示を見える形で示す沖縄が、頼もしく、うらやましくも感じる。そして、何かを変える行動をせず、遠くから沖縄を眺めているだけの自分が、「うらやましい」と感じたことに後ろめたさを感じる。

 ドライブの最中も、「不発弾処理中」と書かれた自衛隊の戦車が一般道を走っていた。強引な車線変更と横入りを繰り返すYナンバーの車もたくさんいた。

「いつもアメリカーはこうよ。わじわじーするー」とNちゃんは言いながら、車のスピードをあげるのだった。