『ハムレット(どうしても!)』言葉に埋もれた先に
2023年4月30日、舞台芸術公園 野外劇場「有度」にて『ハムレット(どうしても!)』を観た。
フランスの劇作家・演出家オリヴィエ・ピィがシェイクスピアの『ハムレット』を解釈し、現代に再掲示する、批評劇とも呼べるような作品だった。
4人の俳優の饒舌な身体を伴って語られるフランス語と、日本人が理解しうるエッセンスを加えた膨大な字幕、片耳からイヤホンガイドで飛び込んでくる学術的な解説という、言葉、言葉、言葉の波に溺れるような鑑賞体験。机上で記される数多の批評理論が、実在の人間によって立体化するとこうなるのか、というと堅苦しいが、演じる側が脚本や設定にツッコミをいれながら演じていくスタイルといえばいいだろうか。
JR東静岡駅のロータリーから、チャーターバスで日本平にある野外劇場へ向かう。受付では断熱素材の座布団やイヤホンガイド、パンフレットにホッカイロや雨用ビニールまで揃ったいわば「野外劇鑑賞セット」を受け取り、劇場へ入る。野外劇の場合特に、この一連のていねいな案内も、舞台に入り込んでいくための大事な要素だ。
客席から舞台を見下ろす形の劇場、後ろの緑の森は当然書き割りじゃなくてホンモノ。木の匂いと花の匂い、鳥の声、虫の羽音。舞台奥には大きな本棚にたくさんの本。そこに飾られている骸骨。椅子、黒板。舞台上下(かみしも)の上部に、字幕が映し出される。
そこで演じるのは4人の俳優とひとりの音楽家。音楽家のソロオケピはドラムセットとパソコン、シンセサイザー、少しの小物楽器。
ノンストップの2時間半の間で、現実の空はゆっくりフェードアウトし暗闇になっていく。あらゆる要素が渾然一体となって、舞台をかたちづくっていた。
知の象徴である本棚と自然の風景というギャップ、生のドラムの音とデジタルな音というギャップを背景に、『ハムレット』の名場面を4人が演じながら、演じ手自身がツッコミをいれていく。ツッコミの内容は、シーンの持つ意味の解釈であり、その言葉をどう翻訳すべきかであり、歴代の思想家たちがこの作品にどうアプローチしたかであり、そもそも演じるってなんだという自問自答である。作品を様々な角度から噛み砕き、味わい尽くすという本来の意味の「批評」を舞台の上で体現している。新旧様々な理論を持ち出しながらも、理論には終始せず、「演劇」という行為そのものへの内省へと向かっていく。
4人のうちひとりは女性で3人は男性だが、戯曲の登場人物だけでなく思想家たちまで登場するものだから、人数は到底足りない。ジャケット一枚、帽子ひとつで人物を演じ分け、一人の登場人物を二人が入れ替わって演じたり、性別に関係なく演じたり、音楽家が演じたり観客が演じさせられたりする。「役」イコール特定の俳優ではないスタイルは、「役になりきる」呪縛から解き放たれて風通しがいい。作品全体を出演者たちが客観的に共有しているからだろう。音楽も、自然の景色の中にデジタルサウンドがむしろ違和感なく溶け込み、アナログなドラムが物語をしっかり切り分けていく。舞台音楽がドラマ性の強調に利用されることが多い中、音楽家ジュリアン・ジョリーの音数と音量のバランス感覚には感銘を受けた。
「言葉、言葉、言葉」に溺れる一方、人間がどうしても「想像し、共感してしまう生き物」であることを体感させられた舞台でもあった。ただのプラスチックかなんかでできた小道具にすぎない人骨が、ぞんざいに蹴られたり投げられたりすることには反射的に体が固まったし、スープをこぼし散らかすシーンには胃のせりあがるような感覚を持った。演劇が言葉を超えて観客の身体を操作することに恐怖も感じ、飛び交う「言葉」とは裏腹に、演劇の身体性もつきつけられた。
セリーヌ・シェンヌが演じたハムレットの実母、ガートルードもそうだった。400年以上前に書かれたシェイクスピア作品は、現代を生きる私にとって、ホモソーシャルな権力闘争と復讐劇の中の女性像に「どうなのよ」と思う部分も多い。今作でもあまりフェミニズム的な観点は見られなかったのは少し残念だったのだが、終盤、ハムレットが実母をののしる際に見せたセリーヌのどうにも逃げ場のない苦しみの表情からは、当時、現実を生き抜くために真実から目を背けるしかない女性の苦悩が伝わってきた。言葉以上に雄弁に語った芝居が、「作られた女性像」を生身の存在に昇華させていた。
後半「演劇とは何か」という問いは加速する。それは、客席に座る私たちの存在に対する問いでもある。私たちは虚構を見ながら現実を見ている。傍観者でありながら参加者である。400年以上前に作られた戯曲と後世の思想家が解釈した言葉を、現代の人が演じるという歴史のトンネルを覗きながら、私たちは、今も変わらぬ人間の弱さを思い、演劇のなせる無力さを思い、しかし数世紀を経て確実に変わった光の部分も見ている。私は、観終えたあと自分がどこにいるのか一瞬わからなくなった。自分の今いる場所も時間も見失えるのが演劇ならば、見失った場所から、立ち上がった後に私が何をするかを問うのも演劇だ。虚構と現実とシームレスにつなぐ夜の闇を受け止めながら、私は劇場を出た。
※2023年に上演された作品の劇評です。
当初SPACの劇評コンテストに応募しており、公開を控えておりましたが、1年間合否の連絡なく、つい先日落選の連絡を得たため、公開します。