美術館は問いかける

 忘れられない出会いがある。薄暗い小さな部屋で、たった一人で対面したエル・グレコの《受胎告知》。見た瞬間、ああ、というため息がこぼれ、絵と出会うとはこういうことかと知った。

 だから、仕事の旅の途中でふと倉敷に寄ろうと思い立ったとき、「あそこには大原美術館がある」と思うだけで心の中にポッと柔らかい光がさした。

 何も知らずに建物の美しさに惹かれて入った10年近く前、その展示品の充実度に圧倒された。大原孫三郎氏がコレクションしてきた西洋絵画、そしてそれに触発された児島虎次郎をはじめとした日本人画家たちの作品など、近代以降、ヨーロッパと日本がお互いに影響を受けあうさまが感じとれた。そこで出会ったのが、小部屋に一点だけうやうやしく飾られた《受胎告知》だった。近づいては離れ、遠くからながめ、心ゆくまで出会いを堪能した格別な時間だった。

 都内の企画展に出かけても、こういう出会いはなかなか訪れない。いつだって大混雑で、立ち止まることを許されない中、他人の頭越しに著名な絵を見て、波に流されるように通り過ぎるのがせいぜい。だからこの美術館で、エル・グレコだけでなく、モネもゴーギャンも一対一で対面したとき、私は初めて、絵と自分の間に関係が結ばれる、ということを知った。

 2024年7月の大原美術館は特別展の最中だった。「異文化は共鳴するのか? 大原コレクションでひらく近代への扉」と、入り口から来場者へ問いかける挑戦的なタイトル。所蔵品を大胆に展示替えしている。時代をあえてごちゃまぜにしてテーマ性を重視した特別展で、前回観た絵が、意外な場所でぽっと飛び込んでくる。「あなた、そこにいたの!」初めて隣り合った絵画同士がちょっぴり居心地悪く照れあっているようにも見える。

 私が再会を待ちわびた《受胎告知》は、「信仰」というテーマで時代を飛び越えて、なんと近代の作品と共に、明るい部屋に並べられていて絶句した。図書館で一人本を読むのが好きな少年が、「みんなと一緒に遊びなさい」とドッチボールチームに放り込まれた昼休み、みたいな異物感。

 正直に言えば一瞬がっかりした。が、そこで迫ってくるのはこの特別展タイトル。隣り合っている作品は何も語らない。異物感に戸惑っているのは、私なのだ。勝手にエル・グレコを神聖視し、他の作品と差別化し、「共鳴」を拒んでいるのは私だ。

 確かに大原美術館にとっても、《受胎告知》はメインの所蔵品なのだと思う。だからこそ、これまでとても大切に展示されてきた。それをあえて、特別視せずに他の作品と並べて見せることに、キュレーターである館長三浦篤氏の確固たる意志がある。

 今では贋作であろうとされているゴッホの《アルピーユの道》も今回あえて展示されている。しかも、そのことを知らずこの作品を一見して「弱い」と言い放った棟方志功の絵葉書と共に。その並べ方に、真偽とは何かをつきつけられる。

 最後の部屋は、現代作家の作品群。大原美術館は、館が所有する無為村荘というアトリエで若手作家に滞在制作の機会を与えている。そこで描かれた作品たちを特別展の最後に持ってきたのだ。なかでも北城貴子の《Waiting Light》という3枚で一対となる大きな絵に私は目を奪われた。無為村荘の庭にインスピレーションを受けたという緑の木々、光と風の風景の中に、彼女が倉敷から受け取った全てが詰め込まれていて、彼女は土地とその歴史に包まれてこれを描いたのだなと感じた。

「あ、出会えた」

 この感覚が忘れがたくて、またここに来たのだ。しかも今回、絵と出会うだけでなく、改めて美術館という場とも出会えた気がする。美術館が過去の展示館ではなく、今ここでどう生きていくのか、その決意をまざまざと見せつけた特別展だった。

 外へ出て商店街を歩くと、なぜかあの絵がたくさん目に入った。各店先には、小中学生が描いたそれぞれの《受胎告知》が飾ってある。巨匠の絵の模写が、街のパン屋でも飲み屋でも洋服屋でも見られる。それでいいじゃないか。絵は美術館を飛びだし、街は絵と美術館を愛している。それが豊かってことじゃないか。

 異文化の共鳴は、美術館の外で、ちゃんと起こっていた。