訳がわからないおもしろさともどかしさ@東京演劇アンサンブル「ミラー」

東京演劇アンサンブルとパレスチナのイエスシアターの共同製作「ミラー」を観る。
観たあとに、わけがわからない、というのは、外国作品によくあるけど、嫌いじゃない。
自分の価値観やセンスで計れないものが出てきて、脳と心が混乱するという体験は、
実体験ではなかなか得られないし得られても気づかないふりしてスルーするだけだから、
舞台で2時間弱、突きつけられるというのは、わるくない。
自分の凝り固まった価値観を、めりめりと剥がすのは、けっこう快感だ。

久々に、ざわざわする舞台でした。

この芝居は、モノローグの重なり合いと即興をもとに組み立てられている芝居だから、
全然構築されたものと違う。
連続性とか、起承転結とかいう話じゃない。
違和感の連続。
その中に、キラッと光るセリフや表情があって、
演劇って、長さじゃなくて「瞬間」なんだな、ということを感じる作品でした。

生きることの価値や幸せも、長さじゃなく、「瞬間」なのかもな。
特に、あの厳しい環境に生きるパレスチナの人たちにとっては。

ただ、日本人の役者さんたち、私は声が大きすぎるように感じました。
あのこじんまりとした小屋の後ろで聞いて、あのうるささは、リアリティを削ぐ。
あ、お客さんと会場の空気を捕まえていないのかな?と思ってしまう。
必ずしも、大きな声が説得力を持つわけじゃないし、感情の発露が人を感動させるわけじゃない。
なんだか、あの「いい声」の、「いい滑舌」の大音量では、「小さな声の者への視点」みたいな大事なことを見落としてしまう感じがするのだ、せっかくの「演劇」なのに。

そして、観客に向ける目線が、いつも、「目を合わせてるようで合わせない」→見られてる側はよくわかる。
芝居の内容ともリンクして、そうかー、そんなにお客さんと絡むのは怖いのか、否、コミュニケーションは怖いのか、と感じさせられた。
そういう芝居の内容だったから、それも演技と言われても納得してしまうほど。

逆に、主役?のパレスチナ人俳優の、いつも妙に濃くて親近感あふれすぎる視線が(役者へも客席へも)際立っていた。
この人は、濃密な人間関係の中で生きているんだな、と感じさせた。

その、人間関係の違い。
むしろ傍目に見えている環境の厳しさとは違って、私には日本人の方が不自由でしんどくて生きづらそうにみえました。
それもまた、なんて皮肉なことよ。

最後までわかりやすさへは寄っていかない作品だったけど、
その分、人間のありようがむきだしになる、
その良し悪しを図るのではなく、それそのものがドキュメント、のような芝居でした。

あーあ、いつも思うけど、お金と時間があったら同じ作品何度も見たいのに。

最後に、歴代の役者の空気を吸って、すっかりひとつの生き物みたいに息づいている「ブレヒトの芝居小屋」の魅力と、
送り出しで必ず「楽しんでいただけましたか?」と聞いてくださる制作さんの自負とホスピタリティにも、観劇の醍醐味を感じたことを、付け加えておきます。