感性と知性で

非常時にあふれる情報の中で、何を信じるかというときに、好き嫌いはある意味とても確かな判断材料だなあと思う。
特に原発に関しては、楽観的なものから悲観的なものまで、めちゃめちゃ幅のある意見があちこちで出ていて、それだけを見ていたら、どうしたらいいかわからなくなる。

でも、自分が普段から信頼して好きだった人の発言は、やっぱりしっくりきて、ちょっと自分の地軸を取り戻す。

だから、私が以前から好きだった内田樹さんや姜尚中さんのクールな脱原発論は「やっぱり!!」と思うし、大好きなゲルニカの絵を研究室に飾ってあるだけで「信頼できる!」と直感した小出助教の説明は、今最も専門家として頼りにしている。
そして、今はあまり読まなくなってしまったけれど、私の20代の一時を支えてくれた村上春樹さんの脱原発を打ち出したスピーチもまた、感慨無量だった。

一方、一読して、なんだか薄っぺらいなと思って本を捨てたモギさんやカツマさんは、やっぱり以前原子力推進に協力していたりなんかして、当時そんなことでは好き嫌いを判断していなかったのに、一事は万事なんだなあと実感する。
何かを嗅ぎ取った自分の嗅覚を信じてあげたい。

だから、誰かが何かを警告していたりセンセーショナルな事を言っていた時、出来れば私は「震災以前」のその人が書いた普通の文章、普通の発言をたどるようにしている。
普通の時の普通の発言に違和感を感じたら、それはとりあえずスルー。

信頼に値するかどうか、私が一つの基準にしているのは、知性を感じるかどうかだ。
感情だけで危険や安全を言う人よりも、ある意味冷酷に現実を分析して淡々と発言を続ける人たちの方に、高い感受性を感じる。

本来、感性と知性は、反発しないのだと思う。
むしろ、知性というのは感性の土台の上に積み重ねられるものであり、
感性は、知性がなければ伸びて行かないものだと、私は信じている。
その総合した感覚がきっと「好き嫌い」という主観を作り出すのだと思う。

…何をいいたかったかというと、ここ数日でさらに呆れる情報多発の原発の状況(政府公式といわれるものを含めて)を、もう自分の感性と知性(=好き嫌い)で精査するしかないのだという覚悟を、ちゃんと決めなくちゃと思ったのだ。

他の人にそれを求めるわけじゃないけど、少なくとも私は。


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。