キース・ジャレット ソロ2011 

29日、念願のキースジャレットソロコンサートへ。

CDでしか知らず、その大地から水を吸い上げる大木のような音楽に魅かれて数年、
ようやく本物を見る事ができた。

苦手な渋谷の混雑にうんと参ってしまいながら到着したオーチャードホール。
一通り館内探検を終えてから席に着く。

始まると、普通のコンサートにはあり得ない程照明が落ちていく。
暗闇でみんなが息をひそめる中、聴こえてくるピアノのボディをたたく小さな小さな音。
それだけでキューンと胸が熱くなる。
全く…鍵盤を鳴らす前からキースの音。
ピアノの音も、本当に繊細な音。けして力任せに弾かない。

どうも私はクラシックピアニストの音が、まるでシンクロナイズドスイミングのように感じる事がよくあるのだけど(あくまでイメージです)
キースの音は完全に、空で踊るダンス。

即興で生み出される曲の数々は、不思議と本人が創っている感じがしない。
深い集中を瞬時に行い、何者かを呼び寄せ、その者と語り、そしてそれを見送る…そんな繰り返しのように感じた。
なんだろ、気難しい者、おちゃめな者、繊細な者、いじわるな者…入れ替わり立ち替わりやってくる、その小さな妖精みたいなもの。

コンサートじゃなくて、シャーマンの美しい儀式みたいだ。
とにかく彼は観客へではなく、音楽へ向き合っている。
そこにいられることは嬉しくもあり、あまりに違う次元にいる自分が、少し寂しくもあり。

しかし、私の緊張なのか、はたまた「録音をするためにお静かに!」と何度もくり返されたアナウンスによる観客みんなの緊張なのか、
第一部はあまりに張りつめていて途中で集中力切れ。
ちょうどキース本人も集中力が切れたかのように切り上げる。

異様に体力気力のいるコンサートだ。
20分の休憩中、思わず爆睡してしまう。

そして第二部、一部より少し空気がやわらかい。
一部の張りつめた美しさとは違い、なんだか少しワクワクする空気がしのびよってる、と思ったら、曲中キースが急に演奏を止め、何者かに向かって「バイバイ」と声をかけ、見送った。
絡み付いていたそれがふわっと飛んでいくのが、見えるかのようなしぐさだった。

急に涙が出そうになったら、次からの音が変わった。
空気がまるく、やわらかくなって、いつまででも聴いていたい暖かい感じ。
体中が熱を持ったみたいになって、本編が終了。

アンコールは、目に見えない何者かに向かってではなく、完璧にお客さんに向かって、
メッセージを伝えてくれているようだった。

私はアンコールにはこだわらないのだが(なくても全然OK)
初めて、アンコールってお客さんとアーティストの別れを惜しむ時間なんだなあと思った。
やさしいお別れと感謝の言葉を言ってもらって、ありがとうと行かないでと切実に訴えるそのやりとりが(もちろんそれは、音楽と拍手、のやり取りなのだけれど)ずいぶん切なくて永遠に続けばいいのにと思った。

最後の最後にはもう涙が止まらなくなって完全に恋をしたようになっていて、
そんな風になったことは数年前観たのボビー・マクファーリン以来の感覚で、
一体なんでこの人たちはこんなふうにさせちゃう力があるのだろう、と
本当に呆れた。
すごい求心力だ。

体の中がすっかり浄化されて、ぼんやりして出た渋谷の街は、行きとは全然ちがって見えた。
この世の全てに感謝と祝福を捧げたくなるような気持ち、、それが音楽の本当の力なんだと改めて思った。


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。