創作の余波

事務所メンバーが今、創作モードのまっただ中なので、直接物を作らない私でさえその強烈な余波を受けまくる。

で、その余波を受けた私、なぜか自宅に帰ると編み物しまくり。
ひたすら同じ模様を繰り返す大判のストールを現在編み途中。
大学受験のときも、よく編んでいたなあ。
規則正しい模様編みを、3目、2目、と数えながら編んでいくと、手だけが動く瞑想状態になる。
逆に他の事を考えていると目ががたがたになったり、間違えたり。
出来上がった物には、その時の瞑想状況が如実に残る。

裁縫は大の苦手だが(昔所属していた劇団で、衣装を作っていたら子どもに「それは手芸じゃなくて工作だよね」と指摘された程)、失敗しても何度でも一本の糸に立ち戻れる編み物は、私に向いている。

ものを作ることはなんであれ、瞑想だし、行だと思う。
何でも手作業をしていた昔の農民たちは、今よりも悟りに近かったのだろうか。

明日から、別の劇団の手伝いで大好きな劇場入りするので、多分ますます創作モードは移る。
創作って、その周りの人もその本人の心身も、結局「作品の生け贄だ」と思ってしまうことがある。
最近相次いで見せてもらった資料映像の世界のピアニストや指揮者、演奏家の中で、やっぱり私が好きなのは、そういう人なのだ。

そういうひと、というのは、その人個人がそこにはいない。その人の肉体から音が出ていない。その人の心すら、そこには込められていない。
ただ、宇宙の果てにある芸術の種を、ダウンロードして再生しているだけの、再生機器に見えるのだ。
再生機器の、フォーカス具合だけで、音はものすごく変わるから、その音楽は千差万別だけれど、私の好きな人たちは、肉体も心も、結局作品に差し出しているだけなんだよなあ。
それこそ「ザ、悟り」。

それを見ると、編み物にはまる訳です。そしてそこから沸き立つプチ瞑想で自分を取り戻さないと、創作の大きな潮流に飲まれそうになるのです。
私は、今の所まだ飲まれるつもりはないので、劇場に入っても確かな心を保てるよう、せいぜい体を整えてから入ろう。
劇場もまた、歴代の創作の主人達の念の残る、奇妙な磁場のある場所。
こわくて、たのしみ。


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