「大嫌い」

王国―その1 アンドロメダ・ハイツ―
よしもと ばなな / / 新潮社

言葉は魔術だと思う。
呪いの呪文にも魔法の呪文にもなる。

さて、よしもとばななの長編三部作。
このひとの、超主観、主人公と本人がまるで重なるような語り口をたまに読みたくなることがある。たまにいやにもなるけど。
このひとの物語は、どれを読んでも同じ事を言っているので(大抵のひとはそうだと思うが)、今回もいつもと同じといえば同じ。
スピリチュアルでピュアな、けれど生命力のある主人公の自叙伝のような、いつものつくり。

今回私が何よりブラボー!!と思ったのは、物語の内容ではなく、ある1シーン。
純粋な主人公が、ただ一度だけ、静かに人を罵倒しつくすシーンがある。
恋敵である女性の事を「あのひとの生き方も服もしゃべりかたもぜんぶいけすかない、私はあのひとが大嫌い」と。
いつも前向きで純粋で、美しい主人公が、身もふたもない程の大否定。おお!爽快。

その事に、私はなぜか自分が許されていくように思ったのだった。
マイナスの言葉を吐いてはいけないとか、人を憎んではいけないとか、そんなきれいごとではない。
それが人間なのだよと、「嫌い」と言える事から始まる明日もあるのだよ、と言われているようだった。

誰だっていけすかない大嫌いな人くらいいるし、それをみとめなきゃ次に進めない。
まず最低限口に出来たら、せめてその人を呪い殺さなくてすむだろう。
口にしない人こそが、その念でもって、相手を陥れるのだと思う。

昔、「嫌い」と言った相手に「ありがとう」といわれ、私は言葉の本来の言霊と、口にされなかった私への憎しみの矛盾にがんじがらめになり、「言葉は人を呪う」と思った。
矛盾のない正直な言葉(それがマイナスワードであっても)よりもなお、矛盾した相反する感情を乗せた嘘の言葉は、人を呪うのだ。
嫌いと言い返されたら、どんなに救われたか。

私は、やっぱり言霊を汚すような嘘はつきたくない。
口にせずとも、自分の中で昇華できればそれが一番なのでしょうが、まずは
自分が人を嫌いになる人間だとふまえた上で、さて次だ。

この物語の主人公は、それから鮮やかにちゃんと自分の居場所をつかむ。
憎んだ人のこともちゃんと手放して、自分の人生を歩む。

そのことに、私は希望を抱く。

とはいえ。
追記。
憎むエネルギーは、結局なにより、自分を蝕むのだ。
過去の出来事を思い出して、久々にこの文章を書いただけで熱、出したもんなあ。
主人公のようには、手放せてない証拠ですかね。
下書きのまま消そうと思ったが、ちゃんと載せておきます。


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