手仕事

年明けから怒濤の仕事スケジュール。
勝負の新作舞台の制作で、かなりプレッシャーだった。
そんな中、何を思ったか、編み物を再開してました。
ドタバタの中で、あくせくしていたとき、本場の手編みのアランニットを見て、
すーっと心が静まり返り、これを自分で編みたいなあと思ったのでした。

思えば、大学受験の年にも、なぜか編み物にどっぷりハマっていた。
何か勝負事があるときに、編みたくなるものなのかしら。

とにかく好きだなと思ったデザインの編み図に忠実に、基本を守って、ひたすら2ヶ月。
どんなに疲れていても悩んでいても、一日わずか数十分の毎日の日課。
終わる気配がなかったのに、とうとう編み上がった!
たった一本の糸が、体を温める服になるなんて、本当に不思議。

編み物は瞑想だと、ずっと前から思っていたけれど、やっぱりそうなんだな。
手を使って作る物は全て、瞑想なのだと思う。
博物館に行っても美術館に行っても、
編み物や織物、刺繍、古い縄に至るまで、女性が手を使った展示品には、なぜか泣かされてしまうわたし。

多分、男性よりも遥かに強くて濃い情念を静かな闇に押し込んで、
ただただ時間をかけて作り込む日用品、
芸術作品として評価される事はなく、生活の中で使い込まれ、消耗し、再利用され、捨てられていくもの。
そういうものにどうしようもなく魅かれていて、自分でも作りながらその理由を体感することができた。
これは「私」というオリジナルではなく、先祖代々の女性の手仕事の連なりのはじっこ。
それはなんだかとても幸せ。

出来上がった編み地は着てみると、軽くて柔らかくて、思った以上に優しい。
そっか、さまざまな念は全て消化されるんだな。
それを求めて、受験やら勝負時に限って、こんな非効率な事をはじめるのね。
この怒濤の日々にこそ、編める理由が分かった。

ただ、すっかり春になってしまったので、着る機会は次のシーズンまでおあずけ。
きっとその頃、私は全然違う場所にいるような気がします。


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