ピアノ・タペストリー
ここのところ、音楽三昧。
書きたい事がたくさんあるので、忘れないうちにマメに。
昨日観たのは、音楽仲間室坂京子さんが演奏する、暗闇カフェのライブ。
オーガニックのカフェで、毎週末キャンドルの明かりでライブやるらしい。
室坂京子さん=(以後京ちゃん)については、即興ピアノや、ゆるくてハッピーなバンド「おひるね金魚」での演奏や、同じくノンジャンルピアニストであるシモシュとの連弾ユニットなどを知っていて、それはぶっとんでいて痛快なピアニストなのだが、クラシックをがっつりと弾くのを聴いたのは初めて。
普段やらないクラシック、しかも暗闇で。おう、チャレンジャー。
オーガニックカフェのピアノは、すごくおんぼろで(失礼)
保育園のピアノか!?一個一個の音、全部狂っているのか!?とびっくり。
最初の繊細な曲を聴いたときは、「ここで聴いたら音楽がわからない」と正直思いましたですよ。
でもね、そのおんぼろピアノを恐る恐るでもなく、逆に鳴らそうとひっぱたくでもなく、
ただただ丁寧に弾いている京ちゃんの手の中で、なんだか響きが奇麗になっていくのです。
ピアノの身体のもっと奥から、音が鳴ってくるような感じ。
音楽を奏でる事で、楽器をメンテナンスしているみたい。
そして、ピアノがのびやかになったころに見えて来たのは、なんとなく、タペストリー。
例えて言えば空気になったり水になったり光や風になったりする音楽もある中で、
京ちゃんの演奏は、織物なのでした。
自然の恵みを受け取って、人の手でつくる美しさ。
きっと分析すれば、彼女は楽曲のどのパートをどのような音で、どのような流れで出したいかを無意識に、かつ明快にコントロールしていると思うし、その音の層の鮮やかさがそういうイメージを沸き起こさせるのだろうと思う。そこに確固たる技術も存在するのだけれど、そういうことはどうでもよくなってくる。
京ちゃんが、偽らずに自分の音楽を表すとき、そこには伝えたい事も何もなくなって、ただ美しい模様だけが見える。
そこに意味を感じても感じなくても、受け手の自由。
私は、彼女の織った模様に、「意味」というものは受け取らなかったけど、それこそが祈りなんじゃないのかな、と思ったのでした。