「銀河鉄道の夜」
東京ノーヴィ レパートリーシアターの「銀河鉄道の夜」を観劇。
この劇団、初回観劇は招待、というシステムがある(枚数限定、要申し込み)
それを利用させていただいた。
特にスタニスラフスキー・システムに興味があり、信頼する演出家が取り入れてもいるので、
それをまっすぐに追求している様子を知りたかったのと、「銀河鉄道の夜」を自分も朗読劇として制作した事があったため、楽しみにしていた。
メンバーが全員プロとして活動し、真摯に作品に取り組んでいる姿勢は、舞台すべてから伝わった。
音響、照明、セット、衣装、ひとつひとつがていねいに作られているのもわかった。
小さな劇場で出来る事を大切にしていることも。
原作の意図を歪曲せず汲み取ろうと、非常に忠実に脚本化していることも。
真剣さが伝わるからこそなのだが、ひとつ考え込んでしまったことがある。
スタニスラフスキーシステムというのは、私の今までの認識では、形式的に傾きがちな新劇などと一線を画し、個人の感情の発露と身体の反応を大切にしたリアルさの追求というような、演劇の方法なのだと思っていた。
でも、「リアル」ってなんだろう。
彼らの演技は、なぜか妙に画一的だったのだ。
方法がみんなおんなじで、結果みんなおんなじ芝居。
リアルとは、もっと多層的で奥行きがあり、多様性に富み、ダイナミックでカラフルなものだと思っていた私には、皆一様に繊細で内向的で、たくましさに欠けるように映った。
自分の内側と相手の内側を丁寧に表現し、反応しようとする余り、芝居としての緩急が薄れ、物語としての面白さではなく、次第に出演者の内面ばかりにフォーカスしてしまった。
その役のというより、その役者個人の苦しみ、悲しみに。
うーん。いつも作品を見るとき思うのだが、
舞台に立つ人個人の苦しみ悲しみを、私は別に見たくない。
たまに非常に上手に見せて、観客自身のそれを昇華させるようなすごい人もいるけど、
それは本当に特別なことだ。
人は苦しみも悲しみも、それが物語の中にある時に、それを「ドラマティック」となものして楽しめるのだと思う。
それが本当にリアルに飛び出したとき、それは楽しめないのでは…
物語に閉じ込めるためには、リアルと共にファンタジーが必要な気がするのだが。
そして、システムはどんな素晴らしいものであれ、舞台上では見えてはいけないと思うのだ。
それぞれが、それぞれの方法で噛み砕き、形が見えないくらい咀嚼し、養分になった時、システムではなく、演じる一人一人の存在が浮き彫りになると思う。
とはいえ、これほど疑問を感じ、考えさせられるということは、その基本に役者達のまっすぐさが素敵だったからだ。
これだけ考えさせて下さった事に、本当に感謝する。
作る作品は、これほど人に影響がある、ということなのだ。
出来る事なら、別作品を見てみたい。
そして、せっかくレパートリーシアターという形で、同じ作品を長期上演しているので、
興味のある方、「銀河鉄道の夜」観に行ってみてくださいな。
感じ方はきっと人それぞれ。