狂気のひと

大仕事の一段落のご褒美は、今回は美術館。
神経研ぎすませたライブの後に、すぐには音楽や演劇には行きたくない。
欲しいのは無音の世界。一人旅や絵が私へのご褒美にはいいみたい。

なので、ずっと行きたかったBunkamuraの「ピカソとクレーの生きた時代」へ。

私、絵の見方があんまりよくわからないので、見るのは早い。
解説も読まず、もちろん貸し出してる音声ガイドも借りず、メモも取らず。
(全部やってる人がたくさんいてびっくりした!みんなまじめだわ)

興味のない所はどんどんすっとばして、気になった所だけ立ち止まる、戻る。
だから空いているときじゃないと行けない。

ピカソ達の同時代の画家たちの作品が多数。
初めて気づいたけど、やっぱり第一次大戦のぎゅわんと時代の曲がって行く時期に呼応してか、みんな作風が似ている。みんな大なり小なりピカソみたいな、何か皮肉に捉えたような世界観。
でも、似ているのにちっとも興味湧かない。何かが違う。

ずっと歩いて最初に止まったのは、シャガール。
美術館に入って、今回初めて狂気を感じる。
彼の絵は今回一点だけだったけど、やっぱり足が震える。
そしてミロ。この人の絵はなんか静か。
そして数は少ないけれどピカソが目に入ったとたん、動けなくなる私。
この人を見てしまうと、他の絵は全部まねっこに見える。
この人は、こう描くしかなかったと、分かる。

くらくらしながら、クレーでまた止まる。
愛嬌と、遊び心。
なにか、その瞬間をいとおしむ気持ちが、絵の中にしっかり残っている。

そして、帰り道渋谷駅で、岡本太郎の「明日の神話」をようやく見たら、
のど元で泣きたいのに泣けない熱い液体が押し寄せて、苦しくて苦しくて
その場を立ち去れない。
またまた膝は震えるし。
この絵が渋谷にどん。と無造作にあることが、この渋谷を通る人たちにとってどれだけいいことか、そこにいたらすごく分かった。
強烈な力で、そこにいい磁場を作っている。

共通して「意味わかんないよ!」という絵なのだが、印刷物ではなくて本物を見ると、理屈じゃなく、なぜそういう表現になったのかが、体の細胞に直接訴えかけて来て、びびっとわかる。
本当にわかるんだ。誰にも説明は出来ないし、共有できないけれど、生の絵の伝える力はすごい。
うにょうにょ何かが出て来て、すごい勢いで話しかけてくるかんじ。
そうだよね、こう表現するしかないよね。メッセージとかですらないよね。と絵に向かって相づちをうつ。

みんな、狂気だ。狂気だけど、それを私は好きなんだな。ほんとに、変なのばかり好きなんだなあ。
狂気に憧れてまねっこしてる人たちの絵にはちっともひっかからないのに、
本物の狂気には自分を乗っ取られる。

その後会った人に、「どこかいっちゃった顔をしてる」と言われ、二次元のはずの絵にすっかり迷い込んでいた事を知った。

それにしてもね。所々目に入る美術館の解説。
「この強い色味は、クレーの亡命時代のやるせなさを訴えているのかもしれない」みたいな
解説が絵毎に丁寧に書いてあるけれども。
「訴えてねえよ!!」
と、思ってしまいました。
くだらない。


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