私の沖縄ノートのきれはしvol.2 [1980年 父と昭和]

1980年 父と昭和

「お父さんはパスポートを持って日本にきたんだぞ。沖縄はお前が生まれるちょっと前まで、アメリカだったんだぞ。お金はドルだったし、車も右側通行だったんだぞ」


父は、生粋のウチナーンチュである。沖縄本島で戦争中に生まれ、母(私の祖母)に女手一つで育てられ、高校卒業後、集団就職で1950年代の終わりに本土にやってきた。東京で秋田から上京していた母と出会い、結婚した。私と5歳下の弟の2人の子どもをもうけたものの、私が10歳のとき、母と離婚。父は家を出た。

私が父と再会したのは、2008年心臓発作による突然死で父の職場から連絡をもらい、葬儀に駆けつけた時だった。

ところで、父にはずっと2種類の名前の呼び方があった。通常沖縄では、男性の名前を音読みすることが多いという。父の本名も音読みだったが、どういうわけか、普段は訓読みを使っていた。母は、父に言いたいことがあると、本名を正しくはっきり発音して父を呼んだものだ。その時の父の気弱そうな顔ったら。

役所からの手紙には訓読みのふりがながついていたので、私は子ども心に不思議だったが、本土で沖縄人差別の強い時代を生きてきた父は、沖縄出身であることをなるべく隠そうとして読み方を本土風に変えたらしい。母は、「悪いこともしてないのに、親からもらった名前をなぜ変えるのか」と当時ぷりぷりしていたが、父がどんな体験をしてきたのか、本人の口から詳しく聞いたことはなかった。

私が父から聞かされていたのは、「お父さんはパスポートを持って日本にきたんだぞ」とか、「沖縄はお前が生まれる少し前までアメリカだったんだぞ」「車だって右側通行で、お金はドルだったんだぞ」と冗談めかしていう自慢話ばかりだった。父は私にはひょうきんで、作り話やデタラメを良く言って私を驚かせるのが常だったから、その話も私は、父の作り話の一種くらいに思っていたのだった。私が生まれたのが1976年で、沖縄の本土復帰が1972年だから、本当に私が生まれる少し前の出来事だったなんて、知ったのはもっとずっと大きくなってからだ。

父は、結局死ぬまで沖縄には帰らなかった。父の知らせを受けた母は、「絶対に帰りたかったはずなのに、何意地張ってたのよ」と葬儀の場で泣きながらぷりぷりしていた。母は昔からだいたい父に対して怒っているイメージだ。昔、父が母に黙って私や弟に何か買い与えるたびに、父を叱る母を見ていた。葬儀の時まで怒っている姿は当時と変わらない。夫婦というのは、別れても不思議な関係だ。


子どもの頃、何度か沖縄に家族で行った。幼かったので記憶が一緒くたになっているが、亜熱帯植物園みたいなところで、観客に大きなハブを首にかけるショーのステージに上げられ、泣きもせずニコニコ応じてみんなに驚かれたこと。遊覧船で船の底から熱帯魚が泳ぐ姿が覗けたこと。ハイビスカス柄の派手なムームーを買ってもらい、オバーの家の庭のハイビスカスと一緒に写真を撮ったこと。サトウキビを買ってもらってしゃぶるのが好きだったこと。私は覚えていないのに、オバーが何度も言う「ビーチパーティーやったよね。楽しかったよね」という言葉。海に入った後の発熱。帰りの便が台風で飛ばなくなったこと。父が仕事で先に帰る時、祖母に抱かれながら空港で別れる父と二度と会えないのではないかと号泣したこと。

どれも、「あれも、これも」と楽しいところにばかり遊びに連れて行ってくれたであろう、幸せな、ふつうの子どもとしての記憶だ。


父はずっと、「ふつう」に憧れていたと思う。今でこそ「沖縄出身者」と言っても奇異な目で見られることは少ないけれど、当時はやっぱり本土では「ふつうじゃない」存在だった。「沖縄人お断り」の張り紙があると、母から話には聞いたことがある。

沖縄とは関係ないけれど、うちには、狭い団地には不釣り合いな大きなレコードアンプのセットがあった。親の離婚と引越しで当然処分されたが、最近行ったオーディオマニアの店で同じものを見つけ、「これ家にあった!」と言ったら、そのオーナーに「お嬢様育ちなんだねえ」と言われて驚いた。「こんな立派なオーディオセット、普通の家じゃ買えなかったはずだよ」と。そんな分不相応なものが小さな団地の部屋を占領していた。「お父さんが結婚してすぐにいきなり買ってきたのよ」という母の苦々しさと照れの入った顔も思い出す。

もう一つ、家にはこれまた団地には不釣り合いな、天井まで届く大きな本棚に、びっしりと本が詰まっていて、その中には児童文学全集や図鑑も何十冊も並んでいた。父は児童書専門の出版社の印刷部門にいて、「これはお父さんの会社で作ったんだよ」と自慢していた。時々乱丁があったり天地が逆のページが挟まっていたので、不良品も持ち帰っていたらしい。私はその間違い探しが面白くて、本好きになったのではないかと思う。

居間には大きく引き伸ばされた白黒の写真が飾ってあり、私が父の膝の上で口を青のりだらけにして焼きそばを食べている写真もあった。

大きなレコードプレイヤー。
ぎっしり本の詰まった本棚。
たくさんの家族写真。

昭和50年代の半ば、これが本土で暮らす父の憧れた「ふつうの家族、ふつうの幸せ」だったのだろう。その憧れに近づくために、沖縄を隠し、名前の読み方を変え、ふつうの日本人になろうと努力していた。それほど憧れたふつうの生活を、父は自分で捨て、母は、父の母のように、女手一つで私たちを育て始めた。

いったい何があったんだろう。子どもだった私は、その時おきた出来事の様々で察することはあるし、後々母から聞いた話もあるけれど、実際の父の気持ちはわからないままだ。ただ、今当時の父と同じ年代になって思うのは、父も、時代の犠牲者の一人なのかもしれないということだ。

だって、想像もできない。自分が地に足をつけて生きていくべき場所で、本当の名前を使わず、出身地を隠しているなんて。それは爪先立ちで歩き続けるような、不安定で疲労のたまる毎日だったんじゃないだろうか。何かの拍子に、その爪先立ちに疲れ果てて、ぽきんと、膝から崩れたのかもしれない、と思う。

私自身は父の沖縄出身を隠す必要に迫られた経験はなかったが、それでも私も幼い頃の顔立ちや肌の色は今よりずっとウチナーンチュ要素が強く、見た目をからかわれることがあった。周りの子は、その見た目と沖縄を結び付けなかっただけで、私にもやっぱり「ふつうの子と違う」という実感はずっとあった。

だから、風貌も言葉も名前までも沖縄の少年そのものだった父が、多感な10代の終わりからずっと色眼鏡で見られ続けていたとしたら、「正々堂々名乗ればいいのに」なんて言えないだろうなと思う。それは娘の私であっても、本土生まれ、本土育ちだから言える意見なのだな、と今は想像がつく。そんな中で、私に向かって、むじゃきな沖縄自慢をしていた父。それでも本土暮らしの方がずっと長くなって、結局沖縄には帰らなかった父。


ふつうの生活を捨てた後、父はどっちの名前で生活していたのだろう。死ぬまで帰らなかったから、名前も戻さなかったのだろうか。そのことだけが、今も少し気になる。

父の位牌の前で「セイちゃん」と優しく呼びかける祖母の声が、忘れられない。