反知性主義が世界を覆った後にコロナがやってきて

カミュの「ペスト」が話題になったり、哲学者や思想家へのインタビューが増えたりしてきた。

どなたかがツイッターに、「気晴らしに気楽なものを見ているのでは救われなくなってきて、重い文学が必要とされるようになる」という意味のことを書いていたけれど、本当だなあと思う。(探せたらリンクします)

私も、ドラマレビューの仕事をしていることもあって、自粛期間(なんたって3月頭からだから!)の最初の方は、勉強がてら日本のテレビドラマをいくつか見ていたのだけど、頭の上の方を滑っていくような感触しか得られなくて、心の奥底の不安やもやもやはいっときも払うことができなかった。

そんな時に、がっつりした古い映画とか、読みあぐねていた本とかが、ずしんと重症感を持って体の中に入ってきて、体内の重力が落ち着くんですよね。ふわふわしてた体が地上に着地するような感触になる。

音楽も、今はなぜかクラシックしか聴く気にならない。BBCラジオのクラシックチャンネルでは、重厚な宗教音楽も多く、彼の地の人たちも同じようにそれを望んでいることがわかります。音楽の場合は、体内の異物や雑音が流されていくような感じ。

もともとテレビがないので、ワイドショーを見る機会がないのは精神的に救われている部分だと思うけれど、感染症の今を知りたいときは、NHKスペシャルとかETV特集ばかり見ています。これも、専門家の悲観的な話の方が救われるという不思議な心の現象。

今まで、経済至上主義に押されて、どんどん軽視されてきた歴史や哲学や思想。古い文学や音楽。そして、軽視してないつもりでないがしろにしてきた科学。
わかりやすいものや成果を出しやすいものばかりがもてはやされて、地味な文学部や、時間のかかる研究も、国レベルで軽視してきたよなーと思う。
そして、反知性主義がこの世界を覆い尽くした後にコロナがやってきて、みんなが拠り所にしたくなるのが、再び「知性」と「歴史」と「科学」になってきた。やっぱり歴史は繰り返すし、そこをくぐり抜けた人たちの言葉や、それを研究してきた人たちが、今をどう読み解くのかが知りたくなるし、そこに救われたくなる。
感情がアップダウンしがちだからこそ、感情論を超えた人類の叡智に救われる時。
ミクロな目で見ると、目の前で起こる明日が怖いばかりになってしまうけれど、連綿と続いてきた人類の営みの中では、なんども繰り返されてきた歴史が、今再び起こっているだけのこと。

よし、今こそ「書を捨て、町へでよう」じゃなくて、「家で本を読もう」だな(笑)語彙力なくてすみません。


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