分かりやすくすることは本当に必要なのか

ミュージシャン(特にクラシックを学んだ音楽家)と話題に登るのは「クラシックの敷居を下げて一般の人に分かりやすくするのは必要なのか」という話題。

今日もスタジオに来た音楽家とそんな話になった。

もちろん、堅苦しくなく音楽を楽しんでほしい。音楽は理屈じゃない。のだけれど、「分かりやすくする」ことで、どうしてもこぼれ落ちてしまうことがある。

例えば、有名なピアノ曲は、よく初心者用に簡単な楽譜にアレンジしなおされていたりする。でも、簡単にした分、あの奥行きのある和音や、リズムや対旋律などは再現できず、単純化される。雰囲気は残るけど、奥行きは消えてしまう。
それだってもちろん入り口としてはありなのだけれど、もう作品としては別物。

同じようなことが、今回のコロナの情報でも起きているような気がする。
多くの人が、上手にまとめられて単純化された情報をシェアする。確かにこの答えのない中で何かを断言してくれた方が安心するし、分かりやすい方が行動にうつしやすい。湧き上がる感情も単純化できる。

一方専門家たちの説明は、基礎知識がないと用語がわからないし、グラフもよく理解できない。参考記事に英文の論文なんか挙げられてた日にはもうお手上げ。しかも、彼らは単純に断言をしない傾向にある。それはこのウイルスが未知であるということの本当の難しさを、誰よりも痛感してるからかもしれない。

複雑なことを複雑なまま掲示されると、私を含め、「理解不能〜」という拒絶反応も起こるし、思考停止も起こる。でも、専門家に「こっちに降りてこい」っていうだけでいいのかな?「分かりやすく説明しろ、白黒はっきりつけて、どうしたらいいのか言ってくれ」っていうだけでいいのかな?私たちも知識を身につけて一歩一歩その領域に近づくことが必要だし、それがヒトとして好奇心を満たす行動でもあるような気がする。

くだんの音楽家たちとの会話は、「例えばオーケストラが安易にポップスをやるような形で”降りていく”必要はない。自分たちの音楽を誠実に、誰かにおもねることなく演奏することで、誰かに必ず届くはず。」というような話に落ち着いた。(もっとあれこれ深く会話は盛り上がったけれど)それは、理解できるのがえらいとかそんなんじゃなく、上とか下とかじゃなくて、音楽を受け止める観客の感性を信頼することでもある。

医療の専門家の方々には、器用な分かりやすさだけでなく、科学者としての誠実な情報発信を矜持を持って続けてほしい。(私たちが観客の感性を信じるように、彼らにも一般の人たちの感覚を信頼してほしいなとは思うけれど)
そして私は、専門家に過剰な決断を要求するのではなく、それを学ぶ姿勢と、理解した中から自分で判断する力を身に付けたい。少なくとも、単純化されたまとめ記事ではなく、一次情報を当たる手間を惜しみたくない。

だってさ、ピアノ習ってたころ、大好きだったクラシックの名曲のビギナー版の簡単楽譜を離れて本当の楽譜に出会った時、ものすごく感動したもの。そんなことと比べるなと言われそうだけど、単純化できない事柄には、白黒で解決のつかない奥深い世界が広がってる。それは芸術だろうが科学だろうが共通だと、私は信じる。


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