生きていくことはリスクを取ること
舞台の再開が徐々に始まりましたが、正直制作者としての私は迷いまくりです。
実際に再開の現場にも立っているので、生の音楽、生の舞台が人へ与えることのすごさを目の当たりにしているし、自分の心身でもそのエネルギーを実感しているから、「やっぱり舞台は生だ」と確信を持っている。
それでも、この先具体的にどのように活動をしていけるのか、どんな対策を取っていくべきなのかということには答えが出ない。
緊急事態宣言前には、かなり慎重な動きをしていた演劇・音楽界隈の一部の方たちが、 これに象徴されるような、「マスクをしていれば満席でも大丈夫」というような一部の「専門家」の論にすがるようになっていることには危機感を感じる。
実際にライブハウスや劇場でクラスターが発生したという事実と向き合い、何が原因で何を排除すれば上演が可能なのか、または可能じゃないのか、という検証なしに、「やりたい・やるべき」という思いや、経済的な事情に流されてしまうのは怖い。
立場上、制作者は観客の安全確保はマストだし、そこには雰囲気じゃなく根拠が必要だと思うので、この論には乗れない。
一方、実際に出演者の感染が広がったことを受けて、「出演者のPCR検査するべき」という論が舞台関係者内部から発せられることについても、危機感を感じる。これは、むしろ観客の安全を確保しようというプロ意識からきているし、その姿勢には基本的には共感をする。だけど、その安全は検査で確保されるのか?
例えば舞台初日前に検査をすることをルールにした場合、数日に及ぶ公演期間の場合は、その後のリスクはないのか?毎日小学校や幼稚園を回る劇団の場合、現場ごとに検査をするのか?検査が安全を保証する「賞味期限」っていったいどれくらい?
しかも、舞台内部の人間がそれを発信することで逆に、各地のホールが「上演する団体は検査が条件」とガイドラインを作ってしまったら、むしろデメリットは大きい。
全てのリスクを避ける舞台上演はない。全てのリスクを避ける日常生活がありえないように。だから私たちはそのリスクと安全の狭間で実施方法を悩む。だって観客を傷つけたくないから。
翻って、一鑑賞者・生活者としての自分はどうだろう。
私はまだ、プライベートでは劇場にもライブハウスにも行っていない。ものすごく見たい美術展もあるけれども、それも今の所我慢をしてる。打ち合わせに都内に行くこともあったけれど、帰り道カフェにも寄らずに帰る。オンラインを選択できる都内での会合は、ほぼオンラインを選ぶ。
一方、仕事として観に行かねばならない舞台は、迷わず行くし、今、会いたい人には会う。体のメンテナンス先は都内なので、回数を減らしながらも行く。
なぜだろうと振り返って考えた時に、「それはリスクを取って今するべきかどうか」を天秤にかけて常に判断しているのだと思う。リスクを取るべきことは、仕事上たくさんある。ゼロリスクで個人事業なんてできない。だから、必要だと思うことは、安全じゃなくても選ぶ。その一環で感染リスクも取るべき時は取る。でも、自分の価値観の中で、優先順位が低いもの、代替手段があるものは、リスクを取らない。私個人にとって娯楽の部分での鑑賞はまだ、リスクを取るべき段階まで来ていないのだと思う。
コロナ禍で可視化されたのは、そういうその人個人にとっての価値だ。リスクを取っても舞台を観にいきたいと思うこともまた、その人が大事にするものだ。だから、舞台を観に行くことはどうしてもリスクがある。という共通理解の元、やっていくしかないのかもしれない。
「うちの舞台は、基本的な感染症対策はこのように行なっているけれど、出演者・スタッフの陰性証明は取りません。ましてや観客の感染の有無はわかりません。出演者もスタッフも、移動には公共交通機関を使うし、本人が出かけるのを控えていても、家族は通常の生活を送っています。その中で、それが怖いと思うなら、その怖さを大事にして無理しないでほしい。もし、そんなことよりも、心が震える体験がないと心身の健康が保てない!と思うなら、健康であるなら来てください。」と、長々とメッセージ文をチラシに書くしかないんだろうか!?
どんな学者がどんな論を出しても、それは「ゼロリスク」ではない。感染拡大時期なのか、収束時期なのかによっても、リスクの大小は異なるだろう。何を信じるかもまた、その人の価値観が問われる。
私は今のところ、現時点では都市部は要警戒と思っている。でもこれから企画を動かして行かなければいけない秋以降どうなっているかは本当にわからない。全ての選択肢がなくなる状態でロックダウンをした方がいいのか、リスクを明記した上で判断して動いてもらうのか、まだ分からない。分からないと思うこと、悩むこと、これは今年のコロナと生きるテーマそのものなのだなと思う。