努力や想いの届かない世界にある自由

秋晴れの今頃は、普通の生活にもどっているだろうと、3月の頭には思っていた。
依頼されていた舞台も、「秋なら大丈夫だろう」と当初思われていたから、この時期に延期になっていた。
というわけで、今は、その舞台をどう実施するのかという対策や、文化庁の補助金によって企画されたものなど、様々な仕事が飛び込んで来て、あわあわしている。

でも、以前と同じような心持ちで仕事に向かえないのは、「どんなに頑張っても、この企画は中止になる可能性がある、それは前日であったとしても。」と頭のどこかで思っているからだ。

実施する時点で、ブレーキをどこかでかけている。いざというときにどう決断するかを常にシミュレーションしている。ダメになった時のリスクが少ないように対策を練ってしまう。全力で、ぶつかっていくことなど怖くてできない。

とはいえ、この状況を悲観しているかと言われれば、それも全然違う。

今回あらゆる仕事がなくなったとき、個人の努力や思いなんて無力だと思った。
何年もかけて信用を積み上げて、いただいていた仕事があっという間になくなり、「2,3ヶ月の運転資金がない自営業者なんて自己責任だ」と世間では言われたけど、半年以上仕事は戻らなくてもはや自己責任の範囲ですらなく、お金になるかならないかじゃなくて、やりたいことをやろうと思ったことが思いがけず仕事になったりもした。

いつもなら、こんなに時間をかけることなんてできないという長いスパンの作品創作や、ゆっくり考える時間を得た。周りのアーティストたちは、さすがに春先は参っていたけれど、見事に頭を切り替えてどんどん作品を作っている。コロナ開けには名作が増えているだろうと思えるほど、前向きだ。

やれるかどうかさえ確信が持てないからこそ、本当に実現できた数少ない舞台は、奇跡のように思う。一回の重みが全然違う。人と会うことの意味も違う。自分の努力や想いじゃなく、何者かの采配で、「この時期にやることがたまたま許されただけ」という、人任せな奇跡。感染状況次第で1週間ずれたらやれなかっただろうこともあった。

だから、なんだか私は今年、むしろのびのびした気持ちでいる。無責任でいい。努力なんて簡単に無になる。想いや夢は自分の頑張りだけでは叶わない。お金なんて簡単になくなる。でも、生きて行く道はある。だから、情熱を注げることをした方が、どういう結果になっても「自分の気が済む」。

前々から思っていたけど、ますますそのことに確信を得た。

頑張って上を目指せという世界は、なんて脆い砂の城なんだろうね。

今は、希望があるわけでもないけど、絶望もしてなくて、その時々にやりたいこととやるべきことが降ってくるだけ。そのやるべきことも、次の瞬間には「やるべきじゃないこと」になってしまうかもしれないのが不要不急の舞台。でも作っている瞬間が楽しかったり愛おしかったり、人の心が繋がれる状態であれば、それがその時には形にならなかったとしても、必ずこの世の中に何かしらの形で残る。だから、ま、気が済むようになんでもやろうかな。と、ゆるい心持ちで思える。

2020年は無重力の空間にすっぽり入ってしまったみたいだけど、私には、居心地が悪いとも言えない。残り12月まで何が起こるのかわからないけど、生まれて初めての感覚が、そんなに悪くはない。