女のアイデンティティ
後悔、という言葉は、あんまりない私であるが、一つ先月の後悔。
味噌を・・・作りそびれた。
忙しすぎた。心が全然「生活」という基盤に足をつけてなかった。
浦島太郎のように、毎日異世界に浮かれてた。
いつも、舞台に関わり始めると、女性じゃなくなってしまう。
あああ。味噌作りたかったなあ。
どうして家庭的でもなんでもない私が味噌をいちいち毎年作っているかというと、
あの発酵食品を初めて自分の手で育てたときに、体の底からわき上がるアイデンティティを感じたから。
「私はいま、綿々と連なる女のアイデンティティの先っぽを生きている。」と、その時すごく感じた。
作り方は雑誌で見たのに、作ってみると、明らかに自分が何かを知っているとしか思えないのです。
そろそろかき混ぜる時期だ、とか、そろそろカビをチェックしなくては、とか、そろそろ完成するころだ、とか。味噌が呼ぶ感覚。
私の血のどこかにちゃんとマニュアルが入ってる!そうとしか思えなかったのだ。
体が不調のときに限って始める発酵食品作り。
自家製酵母のパンも、梅干しも、たくあんも、それを思い出させて、自分の中にある自分個人ではない生命力、を揺り起こすのだ。
だから、土のない都心に住む独身の働く女性達の多くが、最近手作りの食品にはまっているのかもしれないなあ。と思う。
そして女のアイデンティティといえば、この不調の時期に、再び編み物にもはまっているけれど、この手の作業がどの世界でも女性の役割だったのを考えると(刺繍も刺し子も織物も)、情念の強い女性の力を封じ込める、または鎮める、何らかの印のような役割があったのかもしれない、と思った。
体が弱くても(男性と比較して)情念は異様に強くて、コントロールが時に不能になる感覚は、女性の多くが持っているような気がするのだが、それを冷ますのが、手で産むあの複雑な文様なのじゃないかしら。
DNAは、すごく多彩なものを次の世代に伝えるのだな。
単なる予測ですが。
味噌にせよ編み物にせよ、不調なとき程はまるというのは、ちっぽけな自分が大きな連なりの一粒であって、ちゃんとその法則に従って物を生み出せるということに、理屈じゃない自信と快感が生まれるからだと思う。
少なくとも、私は味噌作りに、かなりいつも救われているのだ。
なのに、ああ。
今年こそ、パン酵母もまた育てたいけれど、地に足をつけた生活をするということは、ある意味極端さを持たなければいけない芸術の世界との矛盾でもあって、そこをのびやかに行き来できるパワーがないといけないんだよなあ。
それは、土と空をつなげる自分の立ち方。
私のイメージする理想は確実にあるのですが、難しいんです。今の自分のままでは。