追いかけたいもの:清水きよしパントマイム「幻の蝶」

舞台の仕事をしている私でも、観劇は日常ではなく、特別な出来事になった。

今年初観劇は、パントマイミスト清水きよしさんのマイム活動55周年記念公演「幻の蝶 Vol.152」。
2月5日(土)観世能楽堂。
能楽堂でソロでパントマイムを上演する、清水さんのライフワークのような作品だ。

休憩を挟んで8本のオムニバス。そのすべてを、清水さんが一人で演じ、ほんのわずか、音楽を演奏するのは11弦ギター奏者の辻幹雄さん。言葉のない世界の中、タイトルだけが文字としてそれぞれの作品の冒頭に掲げられるのだが、能舞台の橋がかりから、そのタイトルを出すのはこれまたベテランのパントマイミスト山田とうしさん。

静謐な空気の能舞台。開演前から張り詰めた空気で静まりかえっていたが、清水さんが登場して、腕を小さく一振りしただけで、ふわっと空気が動いた。

風船を屋台に飾り、子どもたちに売っていく「風船売り」。

パントマイムというとイメージしがちな大袈裟な動きや説明っぽいジェスチャーはほとんどない。手首のわずかなしなりで風船の軽さを表現し、腰をかがめた角度と目線で、やってきた子どもの年齢やキャラクターまで感じさせる。小さく動く眉や口元のほころびで、演者が何を思っているかが手にとるようにわかる。ひとつひとつはとてもささやかなのに、その全てが、正面席後方にいても見える。

「これしか動いてないのに!」たったあれだけの動きなのに。と、動きのミニマムさ、無駄のなさに圧倒された。動きのピントがぴたりと合っているから、余分な表現が何もいらないのだ。

 パントマイムは見えないものが見えるという。確かに、風船も子どもも、周りの風景も見えるのだが、清水さんのパントマイムの場合、「見える」という感覚よりは、音や声が聞こえる。匂いがする。自分がそこにいる感覚になる。さらに、自分がその場にいながら、頭の中でいろいろな連想がつながっていく。

だから、私はときにストーリーを見失う。

「たばこ」という作品で、清水さん演じる老いた男性のたばこを吸うしぐさが、あまりにも自分が幼かった頃の父の仕草に似ていて、私の心は一気に過去へ飛んだ。亡き父の、たばこに火をつける手、私に作ってみせた煙の輪っか。ついでにわざと髭をジョリジョリさせて頬擦りすること。自分の思い出を辿る連想ゲームと、目の前の舞台が2本同時上映されていて、思い出の目のはしに、別の人の人生が映し出されている。ふと思い出から戻ってきたときには、ちょうどその作品が終わり、私はあらすじを見失った。

だけど、この豊かな気持ちはなんなのだろう。「たばこ」というお題で清水さんが演じる間、私は私の脳内で、自分の思い出を再演したのだ。誰かの創造が、誰かの記憶につながる、こんな幸福な瞬間はあるだろうか。必ずしも集中して見ることを要求されず、観客の自由な心の旅が許される、その余白が清水さんのうつわなのだと思った。

思いのほかコミカルで、落語のように愛すべき愚かな人を演じたかと思えば、生と死をめぐる物語もあり、たっぷり笑ったり泣いたりトリップしたりして、最後、「幻の蝶」の終わり際、腕から手、指先に動きが収斂されていく瞬間に自分が吸い込まれていって、自分で自分の心が捕まえられなくなるほど遠くまで出かけていった。

そして、現実の世界にまだ戻ってきたくない葛藤を抱えながら、ぼんやり夢うつつにカーテンコールの挨拶の言葉を聞いた。「コロナ」というワードが出てきて、ハッとして我に返った。そうだった。現実の私は、まだ2022年第六波のただ中に生きていて、周りはみんなマスクして生きてるんだった。どこにも行けない日々の中で、この2時間、ずいぶん遠くまで行った気がする。観劇が気軽なものではなくなった分、この2時間は、とてもとても貴重だった。


「幻の蝶」というタイトルは、広い意味では、追いかけているのは蝶そのものではない気がする。清水さんが作中の人物のように生涯をかけて追いかけ続けてきたものを、一緒に束の間みせてもらって、私も私の中に追いかけたい蝶の姿があることを改めて知った。自分の前を歩く人の姿が凛々しいと、自分もつられて背筋が伸びる。たくさんの人に、清水きよしさんの蝶を追う姿を観てほしい。

清水きよし「空間の詩 Pantomime」http://mimeworks.net