私の沖縄ノートのきれはしvol.1 [2021年 首里城の御庭の前]

2021年 首里城の御庭の前

2021年10月、7年ぶりに訪ねた沖縄は、静かだった。
那覇の国際通りは、緊急事態宣言が解除されてもまだ休業している飲食店も多く、以前なら数十メートルおきに声をかけてくる客引きや陽気なタクシーの運ちゃんにも(「ワンメーターでも乗っていきなよ」にいつも笑ってしまう)、道端で飲みながら気軽に話しかけてくるオジーたちにも、マスク姿の私は見えていないみたい。透明人間にでもなった気分だ。
その奇妙な静けさは、台風がいろんなものをなぎ倒して去っていった後のようだった。

首里城に向かってみる。2019年に火事で首里城正殿と南殿、北殿が焼け、沖縄観光のシンボルともいえる明るい朱色の城はなくなってしまったが、「今」の首里城跡はそのまま公開されている。
正殿があったはずの広い御庭(うなー)の前には、空がぽっかりと見え、鉄骨の工事の足場があちこちに組まれて、所々にブルーシートがかかっている。
けばけばしい青緑色のゴムシートが敷かれた仮設の通路が続いていて、そこをわずかな観光客が静かに歩いていた。
なまなましく展示されている、煤の跡の残る大龍柱、屋根に飾られたやちむんの龍の、粉々に砕けた歯やヒゲの欠片。
それらは城を見上げていたときにはまったく見えていなかった、細かくてていねいな、人の手仕事だった。

首里城は、歴史上何度も焼失している。私たちの記憶にあるのは、沖縄戦で焼失した首里城を再建してまだ30年ほどしかたっていない、いわばレプリカだ。でもいつの世の人が作ったものであれ、人が心を込めて作ったものが壊れているのを見るのは胸が痛い。

首里城が失われた場所に立った時、自分が意外にもすごくショックを受けていることに気がついた。遠くに住む自分ですらそうなのだから、ウチナーンチュはなおさらだろう。
それどころか、かつて琉球王国の象徴だった戦前の首里城に日本軍の司令部が置かれ、米軍の爆撃によって焼かれた当時の住民の気持ちは、どれほどのものだろう。

以前、美しい城を目の前にしたときよりも、何もない御庭の前にいる今回の方が、はるかに多くのことを感じる。私は、しばらく動けなくなった。

そうか、私はこの場所に、この気持ちを体験しに来たのだな。

喧騒の中で見逃していたことがある。あったものが無くなった場所だからこそ、見えるものがある。
2021年の首里城跡は、そのことを静かに教えてくれた。その姿は、痛々しいけれども切実に美しいな、と思った。


今年、久々に沖縄を訪ねようと決めたきっかけの曲がある。知人が作詞作曲をした「椿油とワンピース」という曲だ。2020年6月23日沖縄慰霊の日にあわせてYouTubeで公開された。

「僕の家の隣に住んでる白髪のオバーの話です」
という歌い出しで始まるこの曲は、作者のとても個人的な記憶の断片を歌ったものだという。
その曲を聴いた瞬間、浮かんだのは自分の祖母のことだった。オバーの家の匂い、声、オバーの作るあじくーたーな味噌汁。小さな庭に咲くハイビスカス。そして、突然ぽつりと語った戦争と家族にまつわる話。

誰かの個人的な記憶に触れることで、自分の個人的な記憶が呼び起こされたことにびっくりして、一度しか会ったことのない作者に話を聞いてみたいと思った。そして、自分の記憶の断片を、沖縄に拾いに行きたいな、と思った。
まだまだ旅行なんて許される空気ではなかった10月に、わざわざえいっと飛行機に乗ったのは、そんな理由だ。


私にとって、沖縄は少々複雑な場所だ。それを説明するには父のことを語らざるを得ないのだけれど、詳しくは後に置いといて、父の故郷である沖縄に、幼い頃は数回しか行ったことがない。
父が他界した14年ほど前から、数年おきに一人で行くようになった。
気軽に行けるほど心の距離は近くない。沖縄をよく知るわけでもない。
だけど、飛行機から降りてあの甘くてじっとりぬるい空気を吸うだけで、心の底からほっとする。
普段はほとんど意識しないのに、ときどきふと強烈に焦がれ、呼ばれるような気がする場所だ。

なぜ父の死後、沖縄に度々行くようになったのか。ある人に言われたことが忘れられない。
亡くなった翌年に弔いの気持ちで行った一人旅の途中、世界遺産の斎場御嶽から見えた久高島に突然行った。
島から本島に帰った港で、その人はバス停に向かう私に「那覇まで行くから乗っていきなさい」と車の中から声をかけ、頼みもしないのにヒッチハイクのように乗せてくれた。
私に話しかけたのは中年の女性で、中にはその家族らしき人が喪服姿で乗っていた。
私が父の死について話すとこう言ったのだ。

「大切な人は、死を通して最後に大事な人にメッセージを伝えるのよ。大切な人が亡くなって初めて、人は自分のルーツを知りたいと思うもの。そうすることで初めて地に足をつけて生きていけるのよ。」

ルーツ。

うまく言えないけど、私は物心ついたときから、説明のつかないかなしさを抱えてきた。
なぜか自分をマイノリティだと感じ、周りの人と分かり合えない決定的な欠乏感があるとずっと思ってきた。
その理由は、沖縄に行くようになって少しわかるようになった気がする。
オバーが突然、戦争当時のことを語り始めた時に、「私の中のかなしさの原因はここか」と腑に落ちたのだ。
自分の身に起こったことをオバーは、「誰も悪くない。誰も恨んでいない。みんなそうだったし、そういう時代だった。」という。
そのことを胸に秘めながら父を一人で育て、その父から私は育てられた。
なるほど。自分の体験していない一族の体験や感情は、言葉にしなくても私に受け継がれているんだ。この島が琉球の時代から何度も奪われ、壊されてきたという歴史と、私のかなしさは無関係ではない。

たとえば叔母は戦後生まれだけれど、「戦争のことを思い出して悲しい気持ちになるから、本島南部には行けない」という。
「椿油とワンピース」の作者も、「家族をみんな集団自決で失った母が、大人になってからも台所で『お父さん、お母さん』と子どもみたいに泣く姿を見て育った」という。
これは、もう個人の記憶ではなく、ウチナーンチュという民族の記憶なのだ。
そんな土地が私のルーツなのだとしたら、自分がもらったかなしさも大事にしたいと思うようになった。

 前出の女性は続けてこうも言った。
「沖縄、久高島は、東の始まりの場所。命の生まれる場所なの。あなたがそこに呼ばれたということは、『生きなさい』ということ、ここから新しく始めなさいということなのよ。それがあなたの魂の叫びなのよ」

失うこと、壊されることと、生まれること、始めること、という真逆のふたつが沖縄には当たり前のように共存している。オーシャンビューのリゾートホテルの隣には先祖代々の亀甲墓があり、基地と基地の間に民家がある。戦争遺跡は、美しい海の目と鼻の先にある。
生きるものの営みと、死と破壊の戦争の爪痕は、いつも隣り合わせなのだ。


普段私は、音楽や舞台をつくる現場でサポートをする仕事をしている。
作品がゼロから生み出される奇跡のような瞬間を何度も目撃させてもらって、その喜びを身体中の皮膚で感じている。
ものを生み出すことをたまらなく尊いことだと思い、それができる人に憧れる。
でも、つくり手たちの衝動や葛藤や衝突によって、人間関係が壊れたり、作品が壊れたり、ときには人そのものが壊れてしまうような、二度と元に戻れない場所にいくこともあるし、作品は往々にして、何かを失った後、奪われた後に生まれるという切ない皮肉も痛感してきた。
つくること、生まれることと、壊すこと、失うことは、創作の場でもまた、同時に起こっている。そのギリギリの狭間にいるとき、不思議だけど私は生きてる心地がする。


2021年の沖縄は、「観光の島」とか「基地の島」とかで名付けられ、消費されてきた今までの沖縄とはちょっと違う、真空の場所だった。
そこに呼ばれるようにやってきた私も、やっぱり透明人間だったのかもしれない。
細分化された分断によって幾重にも引き裂かれるような心持ちで過ごし、自分を見失いそうな一年だったから。
コロナ禍の生活で、街の建物が目に見えて失われたわけではないけど、私はずっと、荒野に立っているようだなと思っていた。
だからこそ、ぽっかり抜ける空しか見えなくなった首里城の御庭は、過去の疑似体験であり、私の心象風景そのものにも思えた。

これから書いていくのは、ごく個人的に、私が沖縄で受け取った断片的なことばたちのことだ。
それをもって沖縄を語ったり世の中を語ったりすることはできないけど、一粒ずつ私の一部を作っている言葉や風景や記憶をたぐりよせていくと、自分が生きているこの時代や、この場所をさかのぼり、かなしさの源流にたどり着くかもしれない。

今、ここからものを考えてみよう、と思う。
誰もが少しずつなにかを壊されたり失ったりしたこの時期に。かつて全てをめちゃくちゃに壊された沖縄を起点に、失われたものの先にしか見えない景色を、見てみたいと思っている。

2021年10月、首里城の御庭の前