2023年2月読了・記録 2026年再録
私にとってロシアは遠い。見たことも体感したこともない極寒の大陸や、全く読めない、聞いてもわからない言葉という距離的な遠さだけでなく、ソ連が「共産主義」という恐ろしい国であるという教育や、シベリア抑留体験を持つ祖父のソ連嫌いもあって、心理的にもとても遠い国だ。
なのに、この本を読むと、私は行ったこともないモスクワの大学の質素な寮や、夕暮れの校舎、教授が朗々と語るロシア語の詩を、なぜだか知っているような、懐かしいような気持ちになる。それは作者の奈倉有里さんが、自身がロシアでどっぷり過ごした体験をとてもユーモラスに、愛おしそうに、生きた経験として語っているからだ。
自身の留学体験記の一章ごとに、当時彼女が出会ったロシアの文学や歌などの印象的なフレーズが選ばれていることも、ロシアの層の厚い文学の一端を垣間見ることができる。彼女が描く日常にくすくす笑いながら読み進めるうちに、すっかりロシアに興味を持ち、行ってみたくなってしまう。言葉とは、人の心理的距離をこんなにも縮めることのできる魔法なのだな、と感じる。それこそが、言葉の持つ希望ではないのか。
入口の軽やかさに純粋な留学体験青春記のようにも思えたのだが、徐々にトーンは変わってゆく。
後半、自身と師との関係を深く描く後半は、これだけ言語と文学を学んでおきながら、言葉にすることのできないことを思い知る大切なシーンだ。安易に言葉にしなかったことで、二人の関係性はより深いものに映る。
ラスト、留学生活の中で常に言葉や民族、国家の壁と向き合ってきた作者は、現在も続くロシアとウクライナの関係に言及し、言葉の持つ力と文学への希望を語る。
それは、言葉と文学の素晴らしさと怖さ、無力さの両方と向き合い、それでも言葉を生業と選んだ作者が、それによって何をできるかを真摯に考え抜いた結果であることが伝わり、胸をついた。
私たちは、自分の編む言葉によって、人々を分断させることも連帯させることもできるのだと気付かされ、もしかしたらそのことこそが、今読むべき理由だったのかなと思えた。